美術評論家、山本忠勝氏による神戸展(4/20〜30)の評論
Splitterecho
太田正人 The Tower of Babel

神がバベルの塔に警戒心を抱いたのは、「パワー(権力)」の問題だったのだろうか、それとも「トポス(位相)」の問題だったのだろうか。パワーの問題だとすれば、言語を分散させて人間をちりじりに分裂させたわけだから、人間の肥大と増長と権力欲に対する罰だったということになる。トポスの問題だとすれば、言語の多様化によって人間を世界に広げたわけだから、人間を繁栄へと差し向ける深遠なプランだったということになる。太田正人が一枚のキャンバスに八基ものバベルの塔を描き込んでその作品に「それぞれの世界」という標題を付けたのは、神の意志にトポロジックなプランを読み込もうとしてのことのように受け取れるし、たとえ権力の問題だとしても、神の警戒心や疑念をなだめてこの世界に調和と平和を招くための美しいメッセージのように読み取れる(2007年4月20日〜30日、神戸・ギャラリーほりかわ)。

 長崎県の炭坑の島に生まれた太田は、石炭産業の衰退とともに荒廃していく町の風景をつぶさに見た。そこで廃墟への特異な感性を養ったようである。廃墟では多くのものが失われる。だがそれ以上に深いものが現れる。バベルの塔を描くようになったのも、滅びていくものへの画家の鋭い嗅覚が、この古代の巨塔に同じ深さを嗅ぎとったからに違いない。
 だが神戸での震災体験が劇的な転回をもたらすことになる。太田は若くして鴨居玲に憧れて神戸に移ってくるのだが、この街で十六年目を迎えた冬、絵の中でではなく現実の都市空間で未曾有の破壊と廃墟に遭遇することになったのだった。一個の都市が目の前で瞬時にして壊滅した。6000人を超える人が亡くなった。

 「廃墟のなかで廃墟を描く…? 人間の心はそういうふうには(そこまで無慈悲には)つくられてないですね」

 そして2001年の同時多発テロも衝撃的な追い討ちだった。世界の耳目がテレビを通して集中しているそのさなかにまさに都市の中心に出現した大廃墟は、安易なアナロジーは慎まねばならないが、現代を象徴する巨塔の崩壊だったことには間違いない。だが21世紀のバベルの崩落はあまりにも血なまぐさく、残酷だった。3000人近くが犠牲になった。今日の破壊にはひとかけらの救いすらないことをそこでわたしたちは見たのであった。

 太田は家庭の事情もあって震災のあと大分県の宇佐市に帰り、今はそこで制作を続けている。去年ひさびさの個展を神戸で開いて、今春はそれに続いての発表だが、見るものの心を打ったのはバベルの塔の大いなる変容だ。天に届こうと傲岸に構えていた古代の塔の姿は消えて、代わってむしろ植物のように控えめで繊細な塔が並んで立ち上がってきたのである。ある塔の頂にはボタンの花が咲いていた。別の塔の頂には綺麗な巻貝が載っていた。神と権力を競うというより、神にほほえみかける塔である。世界を睥睨(へいげい)する唯一絶対の脅すような塔ではなく、人びとが互いの存在をうべない合い、互いの住む場所を尊重し合い、多様さをむしろ豊かさと考え合う共存の塔である。

 太田は個展の全体のテーマに「再生」という言葉を選んだ。いま救いへの旅路にある。


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