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楽譜の隙間

 MIDIの打ち込みなどしているとよくわかるのだけれど、楽譜自体の持つ情報量というのは極めて少ない。あるいは極めて曖昧というべきかもしれない。書かれてある情報を全てそのまま打ち込んだとしても、そこに聴かれる音の世界は、いわゆる音楽的な感動とはほど遠いのだ。棒読みの朗読に近い。p、f、クレッシェンドなどの表情を忠実に再現したとしてもである。一方、演奏能力がさほど高くない初心者の演奏でも、時として胸がときめくことがある。楽譜に書かれてある音の長さもリズムも不安定で、表情記号の扱いがぞんざいであったとしてもだ。書かれてある楽譜の再現ということでいえば前者の方が圧倒的に正しいはずなのに、そういうことが起きる。これは何故だ。

 作曲家が、あるインスピレーションを得て、それを一つの独立した世界として築き上げるのが作曲ということである。そこには常人には想像も出来ないような豊かな美しい世界があったはずだ。ところが残された楽譜は、作曲家がどんなに手を尽くしても不完全な状態でしかないのである。音楽の創世期から様々な楽譜の記譜法が考えられて今に至るのだが、その今にしてこの状態なのだ。もし、作曲家が自分の世界を忠実に残したいと思えば、一つ一つの音符に細かい注釈を加え、表情にしてももっと仔細に記入できるだろうにそうはしない。何故だ。

 歴史を振り返れば、長い間、作曲家が演奏家であった。作品を演奏するのが自分自身であるとすれば、細かい注釈などいらぬ。アンサンブルであったとしても現場で演奏者に直接指示すればすむことだ。そのために簡単な記譜法になっていることは、充分推測できる。しかし、果してそれだけであろうか。もっと積極的な理由があるのではないか。

 これは絵を描いていて思うことだが、芸術というのは基本的には抽象的である。描かれてある対象物も明確で、いわゆる抽象絵画や現代芸術、そして音楽などに比べれば極めて具体的なはずの具象絵画においてでもだ。人間はその知力によって全てを支配できるものではなく、作品にはそこからはみ出したものが多く残される。それは曖昧なものであり、通常、イメージとか感覚とか呼ばれる。よく、テーマについて、これは何を表しているのですかと聞かれることがあるが、そんな事、描いた本人にもちゃんとはわかっていないのだ。たとえば有名な作品で「モナリザ」。世界中の人が知っていて、何を描いてあるのかもわかっているつもりだろうが、本当はあんなに不思議な絵も珍しい。女の人がこちらを向いて微笑んでいることは確かであるが、それ以上のことは何もわからぬ。魅力的なのは確かなのだ。だが、どうして世界中の人が何代にも渡ってこんなに魅了されるのか。良い芸術というものは、こちらの知の部分にではなく感覚に直接訴えかけてくる。具体的な何かではなく、抽象的な何かで。その抽象的な何かを私達はしっかりと受け取っているのだ。

 音楽に戻ろう。同じことは音楽にもいえる。楽譜に書き残されているのは具体的な骨格であり、それだけでは充分とは言えぬ。これに肉をつけるのが演奏家の仕事だ。肉とは微妙なテンポの揺らぎであったり、エネルギー感であったり、響きの美しさであったり、感覚的な様々の事柄である。演奏家は、作曲家が残した音符のメッセージを深く読み、そこにあるイメージを生きた音楽として現代に表出する役割を与えられている。今ここにリアルタイムで表現するのだ。肉は腐る。過ぎし日の作曲家に完全なる記譜法が与えられていたとしたら、彼が付けた肉は今も残っているだろうが、恐らく腐っている。不完全な記譜法であるがために、後の人達がその時代々々で新しい肉を付け、新鮮さを保って来たのだ。楽譜自体に曖昧さがあることは、この意味で極めて重要である。
さあ、あなたは残された楽譜の隙間にどれだけの豊かな肉を付けることができますか?

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