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山歩き

 少し湿っぽくなってしまいました。話題を変えましょう。

 先生はその絵から受ける印象のせいか、とても気難しい人間だと思われているようですが、実は全く違うんです。もちろん、創造するということは尋常でない困難を伴いますので、その中では誤解されるような行動や理解できないような発言があることは事実ですが、日常においては極めて普通なのです。いたずらが大好きでおっちょこちょいでした。その鴨居先生のいたずら心に私が巻き込まれてしまったことがあります。

 先生は野球をしたり身体を動かすことが大好きでしたので、神戸という恵まれた環境の中で自然と山歩きを楽しむようになりました。ただ、何でも突き詰める性格とみえて山歩きもだんだんと本格化していきましたが..。そこに至るある日のことです。神戸には六甲山という日帰り登山をするには最適な山がありますので、一緒に登ろうということになりました。新神戸駅の裏から摩耶山、六甲山を経て宝塚に至るという、ほぼ半日がかりの行程です。私も時々山歩きはしていたので登山靴は持っていたのですが、ニッカボッカなどは持たず、ジーパンでというのもどうかと思ったので急遽自作することにしました。古いズボンの下を切ってニッカボッカに仕立てようと。ところが慣れない作業なので、登山当日の朝まで徹夜になってしまったのです。これがいけませんでした。

 早朝、登山歴数十年というM氏を入れて三人で新神戸駅の裏の布引という所から登り始めました。途中に小さな滝があったりしてとても気持のいいルートです。やがて摩耶山の取掛かりから頂上を経て六甲山への縦走が始まりました。このルートは私もすでに数回登り、慣れていたのですが、この時はどうも様子が違いました。縦走を始めた辺りから何だか右膝の筋肉が変なのです。やばいなと思いましたが、先生の性格を知っている私としては言い出すわけにもいかず、何事もないかの様にだましだまし歩いていました。ところが傷みが次第に痙攣にかわり、二人と同じペースでは歩けなくなってきたのです。どうかしたかという先生の声に、いえ、と答えて歩き続けましたが、異変が起っていることを師は見逃しません。六甲山のロープウェー乗り場にさしかかった時、やさしい声でこう囁きました。「無理はしない方がいいよ、太田君。ま、今日は調子が悪そうだからこのロープウェイで下山しなさい。大丈夫だ、リタイアしたことは誰にも言いはしないから。悔しいだろうけどこういうこともあるよ」ってね。その時、口元に密かな微笑みが漏れていたことを私は見逃しませんでした。やばい、とは思いましたが、このまま歩き続けて二人に迷惑をかけてもいけないし、しぶしぶ納得して下山することにしました。

 下りてはみたものの、完走した2人が宝塚で美味しそうにビールでも飲むのかと思うと悔しくてたまらず、私の足は家にではなく宝塚へと向いていました。登山道の出口で待っていようと思ったのです。いえ、ほんとはビールが飲みたかったわけではなく、一抹の不安があったものですから。しかし、残念ながら宝塚で二人に会うことは出来ませんでした。仕方がないのでいったん家に帰り、ビールでも飲んで疲れを取ろうかと『蛸の壷』へ向かいました。ところがです。お店に入った途端、「やあ、今日は残念やったね。途中リタイヤやて?足がつったらしいやん」とお店の主人が言うではありませんか。「え?な、なんで知ってんの?」「さっき鴨居さんが見えはって、えらい嬉しそうにゆってはったわ。彼はまだ若いのに途中で歩けなくなっちまったんだ。はっはっは、格好は良かったんだけど可哀想にね、って」 家に帰る前にわざわざここに寄って報告していったんだ。くっそー。それから後、会う人会う人にリタイヤのことを事細かく言われるのには参りました。せんせー、言わないって約束だったのにー。


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